東京不思議迷子最新情報に戻る
東京迷子最新情報に戻る
mustangcafe最新情報に戻る

連載 東京不思議迷子 第3回 「板橋刑場」

東京不思議迷子 第3回 「板橋刑場」
写真・文 インベカヲリ★ ゲスト 東川遥(アーティスト)
Posted on 2011.12.02 FRI

江戸時代の処刑場といえば、小塚原刑場と鈴ヶ森刑場が有名だ。
しかし新撰組の局長・近藤勇が処刑されたのは板橋刑場だという。
板橋に刑場なんてあったのだろうか。 板橋区出身の私ですら初耳だ。 ウィキペディアにもほとんど記載はなく、にわかに信じがたい。 今は民家であるらしいその場所に、面影などは残っているのだろうか。 謎を解明するべく、「板橋刑場」跡へと行って来ました。

事前に下調べとして板橋区中央図書館へと向った。 区の中央図書館に行けば、 たいていその土地に関する古い資料が保存されているものなのだ。 が、なんと板橋区中央図書館には、 板橋区の古地図が置いていないとのこと。 板橋は江戸の範囲から外れるためか、 どの古地図も板橋の手前で終わってしまうのだ。 ならば板橋刑場に関する資料は存在しないのかと探してみたが、

これも皆無。

なんてこった。

ベテラン風の司書さんが責任感を発揮して、 一緒に探してくれること約1時間。わかったことは、 板橋刑場なんて場所は存在しないということ。
まったく拍子抜けだ!

近藤勇が処刑されたのは、中山道の板橋宿の入り口、 平尾一里塚近くの板橋刑場といわれている。 かろうじて当時の中山道を描いた手書きの地図を見つけたけれど、 やはり板橋刑場らしきものは記されていなかった。

ならば、いきなり現地に行くしかない。
板橋刑場を探すべく、JR板橋駅へと降り立った。



今回一緒に歩くのは、 ソニーミュージックアーティスツに所属する アーティストの東川遥ちゃん。 東川と書いて「とがわ」と読む。 実は、東京不思議迷子のタイトルバナーにいる幽霊は、 彼女が被写体なのだ。 歯列矯正のブリッジが、赤と緑の クリスマス仕様になっているのには驚いた。

しかし今回は霊感にはあまり期待していないのだ。 なんせ彼女は新撰組マニア。 新撰組が暮らしていたとされる京都の壬生寺には、 年に数回通うほどの熱心なファンだという。 「でも大河ドラマでやって以来、 壬生寺がお金取るようになったんですよ。 新撰組グッズまで売っちゃって、あれにはビックリ。 昔の壬生寺に戻って欲しいです! このことは是非書いてください」と熱く語る。

また、新撰組の中でもマイナーな人物といえる藤堂平助のファンで、 「結局、裏切り者として新撰組に殺されちゃうんですけど、 私はまっすぐな性格が好きなんです! 新撰組っていうと、たいていイケメンの土方歳三か、 斎藤一とか沖田総司が人気ですよね。 まあ、男はミステリアスだったり 儚さがあるほうがモテるのは分りますよ。 でも私は藤堂平助ですね。近藤勇ですか!? 大将肌で見たまんまですからね、 女の子にはあまり響かないかと。 でも、私は近藤さんも男らしくて好きですよ」 と、モテヒエラルキーを伝授してくれる。 さらにお母さんまで新撰組のファンらしく、 「お母さんは、毎年命日になると土方歳三宛てに手紙を書いて、 お焚き上げをやってましたよ」というからビックリ。 酔狂な母子である。
そんな遥ちゃんは、 関東の新撰組ゆかりの地に関しては未開拓らしく、 今回はワクワクしながら参加してくれた。



さて、JR板橋駅の東口を出ると、 探すまでもなく近藤勇の墓が姿を現す。
駅徒歩0分の一等地だ。



近藤勇のほかに、永倉新八の墓や土方歳三の供養碑もある。



供養碑の横には、なぜか小さな無縁仏が立っていた。



絵馬は、近所の喫茶店やカラオケ店で買えるらしい。
合格祈願から、武士の奥さんになりたいという無茶なお願いまで色々。



木箱の中に、交換ノートがたくさん置かれている。



日付を見るに、どうやら現役で盛り上がっているらしい。 自己紹介や、ここで出会った人たちとの思い出などなど。 近藤勇から一人歩きし、交友関係を深める場として 新たな展開を見せているのは面白い。



供養碑を背にすると、正面にマクドナルドが見えた。 エジプトのスフィンクスの目線の先はマクドナルドというけれど、 日本でも同じ現象が起きているかと思うと、 マックの威力に驚愕する。



お墓の隣の喫茶店では、イサミあんみつが売られていた。



お墓を出て、旧中山道へと向う。 この、こんもりとした道路の膨らみは、 江戸時代にあった上水の跡だという。 当時の面影が残っているというのは、 都内としては珍しい。



この先をまっすぐ行くと、 旧中山道の板橋宿のあった場所に繋がる。 ここはまだ板橋宿に入る手前で、 平尾一里塚のあった付近だと言われている。 一里塚とは、旅行者のための目印として作られた塚のことで、 休憩場としても機能していた場所だ。 近藤勇が処刑されたのは、この平尾一里塚とも、 それに隣接していた馬捨て場とも、 はたまた現在の墓の場所などとも言われているが、 真実は誰にもわからない。 しかし切られた首が晒されたのは、 この一里塚であるとの説が有力のようだ。



踏み切りを超え、旧中山道を歩く。 事故にでも遭ったかのような片方の靴が、 これから行く場所を暗喩しているかのようだ。



中山道の横道を見ると、 アスファルトの真ん中に桜の木が植わっていた。
強引に道幅を変えた跡だろうか。



高速道路下をくぐりそのまままっすぐ突き進むと、 いよいよ旧中山道の板橋宿に突入する。 今でも板橋宿商店街としてその名は使われていて、 道幅もそのままだという。



商店街の中にある観明寺は、江戸時代の地図にも載っている古いお寺。



手入れが行き届いているのに、なぜか花瓶だけがPOKKAの缶コーヒーだった。



さらに進むと、銭湯「花の湯」が現れる。
建物こそ作り変えられているものの、 こちらも江戸時代から続いているらしい。



「花の湯」の角に、平尾宿脇本陣跡の目印がさりげなく書いてあった。
右に曲がればそれがあるのだ。



何の変哲もないマンション。



しかしよく見ると、石碑がポツン。 知らない人なら通り過ぎてしまうだろう。 板橋宿平尾脇本陣豊田家とは、 近藤勇が処刑される前々日まで幽閉されていた場所だ。



マンションの垣根には椿が植わっていて、ピンクの花が咲いている。
「どうしてだろう…?」
なにやら訝しげな遥ちゃん。 なんでも椿の花はポトッと落ちることから首切りを連想させ、 武士の間では嫌われた花だったのだとか。 「こういう場所に椿を植えるって、なにか意味があるのかな」 いや、恐らく何の意味もないだろう。



このマンションに、新撰組マニアが住んでいそうな気配はなかった。



花の湯の煙突が空に向って伸びている。長いなあ。



この江戸風の建物は、板橋地域センター件、いたばし観光センター。 なぜか職員さんが客引きのように外へ出ていて、へいらっしゃい! とばかりに中へ誘い込まれた。



ロビーの一角では、中山道の歴史を紹介する資料が展示されている。 「近藤勇にまつわる場所を歩いているんですけど」と言うと、 職員さんの目がキラリと光った。 どうやらこの人は、そうとうな歴史マニアらしい。

どや! とばかりに見せられたのは、 板橋区教育委員会が出版した「文化財シリーズ第77集 写真は語る」



これが、さっき見てきたばかりの近藤勇の墓だ。 今ある供養碑と同じものが、草むらにポンと立っている。 当時の人は、まさか向いにマクドナルドができるとは思うまいに。

「死んだ女郎が投げ捨てられた場所に立てたんだよ」と、職員さん。 本やネットで調べた情報とは、随分違う話だ。 なんでも板橋宿の周りには女郎屋がいっぱいあって、 客の泊まっている宿へ女郎を送り込むシステムだったのだとか。 そして死んだら、草むらにポンと放置するのだという。 もしかして、供養碑の隣にあった無縁仏がそれなのか。

しかしなぜ近藤勇と女郎の墓を一緒にしてしまうんだろう。 「処刑された場所の近所だったからでしょ」 うーん、なんだか腑に落ちない回答だ。 ちなみに、商店街の先にある「文殊院」には遊女の墓があるが、 きちんとお墓が建てられるようになったのは、もっと後の時代だ。 「うちには、いろんな場所から情報が集まってくるんだよ。 もう死んじゃったけど、あるお婆ちゃんなんかは、 地方から電話をかけてきて、小さい頃に板橋宿に住んでたっていうんだよ。 捕らえられた近藤勇を見たって言うわけ。 そんで近くに小川が流れていたって。そういう話をつむぎ合わせて、 処刑された場所を探していくんだよね」 近藤勇の処刑場所は未だ解明さていないぶん、 こうして少しずつ探り当てているのだろう。



こちらは、江戸時代の中山道。中央の橋は、 商店街を進んだ先に今でもある板橋だ。

ところで、「板橋刑場」はなかったのか、 ということについては、あっさりと謎が解けた。 本来、板橋のあたりで罪人を捕まえると、 小塚原刑場に移送され裁判を行ったのちに処刑される。 しかし近藤勇の場合は、 裁判を行うなどの正式な手順を踏まずに官軍が勝手に処刑してしまったのだ。 その場で罪名をサラっ書き、竹を組んで刑場を作る。 近藤勇を処刑するためだけに出来たそれを、 「板橋刑場」と名づけただけなのだという。

この職員さんは、本当にいろんなことをよく知っていて、 商店街の誰々さんは、女郎屋の末裔だとかいうローカル情報から、
AKBについてなど、約1時間ほど語ってくれた。 ちなみに顔写真はNGだという。残念だ。

ところで近藤勇の霊に関する情報は入ってこないのかと聞いたところ、 何も言わずに、首をブンブン振られてしまった。
なんか隠してるんじゃなかろうか。



地域センターを出て、中山道の続きを歩く。 板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿と分かれており、 この交差点を過ぎたところから、仲宿に入る。 職員さん曰く、「仲宿」は間違いで、 本当は「中宿」とのことらしいが、 今は地名まで「仲宿」になっている。



こちらは近藤勇が取調べを受けた宿、板橋塾本陣の跡。 石碑が置かれていたのは、人の家の入り口だった。 この土地の持ち主は、末裔なのだろうか。



古地図にも描かれていた板橋。
この風景を江戸の人たちも見ていたのだろう。



橋の下には、石神井川が流れている。



交番前の茶トラは、鳥を狙っていた。



仲宿を出て、上宿に突入した。 ここは「縁切榎」という、縁切りをお願いする神社だ。 2人で入るのが精一杯なほど小さな面積だが、人の出入りは多そうだ。



我々は、絵馬に釘付けになった。 縁切りのお願いだけあって、書いてある内容がえぐいのだ。 もちろん、病気やイジメなどから縁を切りたいという 切実なものもあるんだけど、ほとんどは男女関係や隣人関係。 相手の実名入りで、●●と××が離婚しますように。 旦那に好きな人ができて円満離婚できますように。 下に住む▲▲夫婦が離婚して引っ越しますように。 などなど。 中には、別れさせたい夫婦の写真を何枚もコピーして ぶら下げている絵馬もあって、執念深さが感じられた。 こんなにあくどい願いが叶うんだろうか…。



「この絵馬を見ちゃうと、生霊がいそうでゾっとする」と遥ちゃん。
まるで発言小町の神社版のように見えた。



駅前まで戻り、お墓の隣にある喫茶店で、イサミあんみつを食べる。 勇の顔でもデコレーションされてるかと期待したが、 昔ながらの普通のあんみつだった。

このお店は、近藤勇のファンには人気があるのだろうか。 店主に声をかけてみると、

「昔はすごかったわよ。毎週日曜日になると、 何十人もの近藤勇ファンが店の周りを取り囲んでね。 うちの店で交換ノートを書いていくの。今はもうパッタリだけど」

てっきり大河ドラマあたりの頃からと思ったら、 バブルよりもずっと前の話だという。 とにかく毎週のようにファンが集まるほど、 白熱していた時期があるらしいのだ。 「今は歴女なんていうけど、昔からそういう子たちはいたのよね」

現代っ子にはあまり新撰組は響かないのか。
はたまた交換ノートがネットに移行しただけなのか。
板橋駅は行きも帰りも閑散としていた。




写真・文 インベカヲリ★ ゲスト 東川遥(アーティスト)

撮影カメラ・レンズ
RICOH GR DIGITAL